希望を持ち続けるには? 自己効力感とは?
学び舎通信 70
明るい気分でいれば
気分(そのときどきの心身の感じ)が少し変わるだけで、考え方も変化します。計画を立てたり決めたりするとき、明るい気分のときは積極的に取り組むことができます。明るい気分のときには、成功したときのことを多く思い出すようにできているからです。 明るい気分でいるときは、判断力(物事のよいわるいを見分けて決める力)を積極的な方向に傾かせる記憶がよみがえり、すばらしい力が発揮できるのです。
希望の力
カンザス大学の心理学者C・R・スナイダーさんは、「希望の力」について研究しています。
スナイダーさんは、学生たちに試験で成績が悪かった場合、次の試験に向けてどうするか?という調査を行いました。
希望を持ち続ける能力のレベルが高い学生は、「もっと一生懸命勉強して成績をなんとか上げられるよう努力してみる」と答えました。希望レベルの中程度の学生は、成績を上げる工夫をいくつか考えてはみますが、希望レベルの高いグループほど断固たる(きっぱりとするようす)決意は見られません。そして予想どおり、希望のレベルが低い学生は、がっくりして何もかもあきらめてしまいました。
「希望を持ち続ける能力の高い学生は自分自身に高めの目標を課し、しかも一生懸命努力してその目標を達成する力がある。知能が同じなら、学校の成績を決めるのは『希望の力』だ」とスナイダーさんは解説しています。
最近の研究によって、《希望は苦悩の闇にささやかな光を投げかける以上のものであること》がわかってきました。学校での活躍から面倒な仕事の完遂(完全にやりとげること)にいたるまで、希望は人生のさまざまな局面(物事のなりゆき)にきわめて強い影響をおよぼします。
希望とは
希望は単に「何もかもうまくいくだろう」という楽天的予想とは異なります。スナイダーさんはもう少し厳密に、「希望とは、目標が何であろうと、目標達成に必要な意志(こうと思いこう実行しようとする積極的な心のはたらき)と手段(方法)が自分に備わっていると信じること」であると定義(ことばの意味を正しくはっきり決めること)しています。
希望を持ち続ける能力は人によって差があります。自分には窮地(追いつめられた苦しい立場。つらい境遇)から脱出する能力や問題を解決する能力が備わっていると思う人もいるでしょうし、自分には目標を達成するエネルギーも能力も方法もないと思う人もいるでしょう。
希望を持ち続けるには
スナイダーさんは、「希望を持ち続ける能力の高い人たちに共通な特質として、
①自分自身に動機(ある考えを決めたり行動する気にさせたりした直接の原因)づけができること、
②目標達成の方法を見つける才能が自分にあると感じていること、
③困難な状況に陥っても事態がやがて好転するにちがいないと自分を元気づけられること、
④目標に到達するために別の方法を考えたり、達成不可能になった目標そのものを変更したりする柔軟性があること、
⑤大きすぎる目標を処理可能な小さな目標に分解するセンスを持っていること、
などがあげられる」と言います。
楽観主義の恩恵
希望と同じように、楽観も学校での好成績につながります。成功にたどりつくには、ある程度の知的能力も必要だが、失敗しても頑張り続ける能力も必要です。挫折(計画などがとちゅうでくじけること。だめになること)しても努力を続けられるかどうかは、大切なポイントです。知能が同じくらいのレベルならば、実際の成績は才能プラス挫折に耐える能力だろうと思います。
自己効力感を持つ
ものごとを楽観的に見るか悲観的に見るかは、生まれつきの気質(生まれつきの性質)かもしれません。ただし、気質は経験によってある程度変えられます。楽観も希望も学習可能なのです。楽観や希望の根源にあるのは、心理学でいう「自己効力感」つまり《自分は自分の人生を掌握((手の中ににぎる意味から)自分のものとして思い通りにできる状態にすること)できている、難題(むずかしい問題)にも対応(状況の変化に応じて物事を行うこと)できる、という自信》です。何であれ得意な分野ができるとその人の自己効力感は強まり、より大きな目標めざして冒険したり挑戦したりする意欲が出ます。そのようにして難局を乗り切ると、それがまた自己効力感を強化します。自己効力感によって人間は自分の持っている才能を最大限に生かすことができます。あるいは、自分の才能を伸ばす努力ができるようになります。
スタンフォード大学の心理学者アルバート・バンデューラさんは、「自分の才能に対する自信は、才能そのものに大きな影響力をおよぼします。才能は一定不変(一つに決まっていて変わらないこと)ではありません。才能がどこまで発揮できるかは、状況次第で大きく変動します。自己効力感の強い人間は、失敗しても立ち直ります。彼らはうまくいかないかもしれないことを心配するよりも、うまくいかなかった場合どう対処すればよいかという視点(物事を見たり、考えたりするときの立場)でものごとにアプローチ(めざす対象に近づくこと)します」と言います。
こころの知性が輝くとき
今から50年ほど前に東京であった出来事です。
合気道(当て身と関節わざを主とする護身術)を学ぶために、テリー・ドブソンさんはアメリカから日本に来ました。
ある日の午後、テリーさんが電車で東京郊外の家に帰る途中、体が大きくて、けんか早そうで、ベロベロに酔っぱらった汚い男が乗り込んできました。男は、周囲の乗客を威嚇(力を示して、おどすこと)し始めました。大声で悪態をつきながら、男は赤ん坊を抱いた婦人を殴りました。婦人はよろけて、近くに座っていた老夫婦に倒れかかりました。老夫婦は飛び上がるように席を立ち、先を争って車輌の端へ逃げる乗客の群れに加わりました。酔っぱらいは何度かこぶしを振り回したあと、車輌の中央に立っている金属の握り棒をつかみ、大声でわめきながら棒を揺すってはずそうとし始めました。
合気道の稽古で体調万全だったテリーさんは、「誰かがひどい怪我をする前に自分が出て行ってあの男を止めなければ」と思いました。しかしその時、合気道の先生の声が脳裏(頭の中)によみがえりました。「合気道は和を目指す。争う心を抱いた者は、その時点で天地とのつながりを断ったことになる。人を威圧しようとする者は、すでに敗れたに等しい。合気道とは、争いを収める道。争いを起こす道ではない」
テリーさんは合気道を始めるとき、決して人にけんかを売らないことと、護身以外の目的で武術を使わないことを約束していました。しかし電車内の状況を見て、テリーさんは今こそ合気道の腕を現実に試すときが来たと思いました。そこで、乗客全員が凍りついたように座っている車内で、テリーさんはわざとゆっくり立ち上がりました。
テリーさんに気づいた酔っぱらいは「なに、外人じゃねえか。きさま、日本の礼儀作法を教えてやる!」と大声をあげ、テリーさんに向かって身構えました。
しかし酔っぱらいが飛びかかろうとした瞬間、「よう!」場違いに陽気な声が車内に響きました。
まるで突然親しい友達に出くわしたような上機嫌の声でした。不意を突かれて酔っぱらいが振り返ると、70代と思われる和服の小柄な日本人が座っています。老人は酔っぱらいに向かって嬉しそうにほほみかけ、快活(明るく元気で生き生きしているようす)な調子で「こっちへおいでなさい」と手招きしました。
酔っぱらいは「ばかやろう、お前と話すことなんかあるもんか」と、けんか腰で近寄っていきました。テリーさんは、酔っぱらいが少しでもその老人に乱暴したら、殴り倒してやろうと身構えていました。
「おまえさん、何を飲んで来たんだい?」老人は酔っぱらいを見つめて尋ねました。
「酒だよ。てめえに関係あるか、ってんだ」
「酒か。いいねぇ。そりゃ、いい……」老人は温かい口調で応じました。
「いや、じつは私も酒には目がないほうでね。毎晩うちのばあさんとふたりで、ばあさんは76になるんだがね、ちょいと燗(酒を適当な温度にあたためること)をつけて庭で一杯やるんだよ。縁台に腰をかけてね……」そして、家の裏手にある柿の木のこと、庭の草木のこと、などを老人は話し続けました。
老人の話に耳を傾けているうちに、酔っぱらいの表情がやわらいできました。握りしめていたこぶしから力が抜けていきました。「ああ、柿はオレも好きだ……」酔っぱらいの声が消え入るように小さくなりました。
「そう」老人の声は元気です。「お前さんにもよく出来た奥さんがおいでだろう?」
「それが死んじまってよ……」泣き出した酔っぱらいは、悲しい身の上話を始めました。妻を亡くし、家をなくし、仕事もなくした。自分が自分でなさけない、と。 「ここへ来て、お前さんのつもる話を聞かせてもらおうじゃないか」