自ら学んで、自らの力で自分を変えていく
学び舎通信 183
Great oaks from little acorns grow.
「大きなカシの木も、小さなドングリから育つ」
という英語のことわざがあります。
あるりんご農家が、こんな話をしました。
「すべてのりんごの種に、設計図があります。種は自然に芽を出し、生長します。種には、太陽や空気の影響で、『自ら伸びていく力』があるからです。
私の仕事は、土を耕すこと、肥料と水をやること、りんご一つ一つに袋をかけて害虫や病気を防ぐことです。できる限りりんごの種の地力を生かし、種の持っている発達の筋道を励まし、手助けをします。
その種の持っている自然の力を大事に育てていると、それぞれの設計図によって、香りがよくて、甘くて、美味しいりんごができます。
りんごを育てるのに、私は無機肥料を使いません。もし無機肥料を使ったら、できたりんごは元の設計図通りのものではなくなってしまうからです。
農業は植物の生命を支える仕事です。自然の道理に沿いながら、作物を育てていくのが農業の本当の姿だと思っています。」
教育は人間の生命を支える仕事です。人間も、一人ひとり設計図を持っています。その設計図に従って、子どもは個性豊かな人間になろうとしています。それを励まし手助けするのが、教育の本当の姿です。
自ら学んで、自らの力で自分を変えていく
大人の意思を子どもに要求し、りんごの種に有害な無機質の化学肥料をやるような塾が増えています。子どもの持っている設計図を無視して、学力テストによって、あたかも物を評価するのと同じように、テストの点数や順位で、子どもを評価します。子どもたちは、多くの無駄な知識の詰め込みや、興味を感じない機械的練習を強制的にさせられ、息苦しさを感じています。親は、大量のプリントや宿題が子どもたちに与えられることで、「これで子どもは早く育つ、上手く成長するだろう」と思い込みます。
しかし、それは苗木を殺し、見た目にはわかりませんが、味も香りもないりんごをつくるのと同じことです。子どもは「自ら学んで、自ら伸びていく力」を殺がれ、元の設計図通り生きられなくなります。
また、都市化が進み、自然がだんだん失われ、子どもが自然に触れて遊ぶという育ち方がほとんどなくなりました。実際のものをどのように扱うかという力量をほとんど身につけないまま、幼稚園・小学校・中学校・高等学校へと進んで行きます。そこで、事物についての知識が、詰め込まれます。
しかし、それらは試験がすんだら忘れてしまう知識であって、本当のものに触れ、その触れた感覚と知識とが結びつくという姿になっていません。ものについての形だけの知識が記憶力で詰め込まれ、大学を卒業するという寂しい状況が現実にあります。
人間の成長というのは、「自ら変わる」ということです。人間が身につけなければならない力は、「自ら学んで、自らの力で自分を変えていく力」です。
自然が与えてくれる力
私は、子ども時代を和歌山県の田舎町で過ごしました。1970年代の田舎の子どもたちは、道路で遊びました。滅多に車の通らない田舎道は子どもたちの遊び場でした。また、川に入って、魚や水生昆虫を捕まえました。町には、林や野原や空き地が、いくつもありました。そこで、秘密基地をつくったり、探検をしたりしました。町を囲む山にも登りました。
今の子どもたちは、そういう遊びの代わりに室内でスマホなどの機械を相手にして遊んでいます。もちろん、今の子どもの機械を用いる遊びや映像を通しての遊びも、何らかの意味で、未来を生きる人間に、必要な要素をもっているかもしれません。
けれども、人間の一番の根っこになるのは、自分の五感で本物の自然に触れ合うことです。そして、自然に触れ合った感触や驚きを仲間と分かち合うという体験が、子ども時代に必要だと思います。
自然ほど偉大な教師はいません。自分の目と耳と鼻と舌と肌で自然に触れることによって、驚きを仲間と分かち合うという経験が蓄えられていることがしっかりあって、そのうえに知識を獲得していく。これが、学力を身につける基礎になります。
息子の友達もゲーム等の室内遊びをしていました。私は息子にゲームや携帯電話を与えませんでしたし、テレビの視聴も制限しました。その代わりに、自然の豊かな、山や川や海に連れて行きました。 子どもは、自然や野生の生きものを相手に遊んでいると、自然に多くのことを学んでいきます。自然は、子どもに学び方を教えてくれます。