能力を向上させるには? 自分の井戸を掘ろう
学び舎通信 76
能力とは?
「能力」という言葉を辞書で引いてみましょう。
すると、「学問や仕事などをすることができる力」や「物事を成し遂げることのできる力」といった説明が出ています。
「素質」はどうでしょうか。
辞書には、「生まれつきそなわっていて、将来発展するもととなる特別の性質」、「生まれつきもっている性質」、「将来すぐれた能力が発揮されるもととなる性質」といった説明がされています。
「素質」が生まれながらのものを指しているというのは、はっきりしていますが、「能力」の「学問や仕事などをすることができる力」というのは、生まれつきのものを指すのか、後天的(生まれつきではなく、生まれたあとに身にそなわるようす)なものを指すのか、はっきりしません。
次のように素朴(考え方などが単純で、こみいっていないこと)に考えてみましょう。
生まれつきの「素質」だけで、人は「学問や仕事などをすることができる」でしょうか。何も勉強せずに、たとえば橋が設計できるでしょうか。「構造力学」の知識を獲得しなければ、橋の設計を「成し遂げる」能力は得られません。
そのように考えると、「能力」すなわち「学問や仕事などをすることができる力」は、生まれながらの「素質」と後天的な「勉強」の二つから成り立っているということがわかります。
素質×勉強が大切
単純化すれば、「能力」は、次のように表すことができます。
「能力」=「素質」×「勉強」
この式の意味は、「能力」が「素質」と「勉強」の二つから成り立っているということです。どちらかがゼロに近いと、結果としての「能力」すなわち「学問や仕事などをすることのできる力」は、ゼロに近くなることを示しています。
「素質」があっても、「勉強」をしなければ、「能力」にはならないのです。そして、いくら「素質」があっても「勉強」しなければ「能力」にならないのですから、「勉強」には時間がかかる分、「能力」が一朝一夕(わずかの時日。短い時期)にできるものではないこともわかってもらえると思います。ですから、自分にはどこかに隠れた「能力」あるのではと考えて、毎日何もしないでぶらぶら過ごすというのは、実にもったいないことなのです。
同じようなことですが、何かの「素質」が自分にはあるのだと思い続け、それ見つけようと躍起(あせりいらだって、むきになること)になるのも、あまりいい方法ではありません。なぜなら、生まれながらの「素質」は、直接見ることができないものだからです。私たちが見ることができるのは、「勉強」した結果としての「能力」だけなのです。
自分に「素質」があるかないかは、小学校や中学校などの基礎的な勉強をしているときにはわかりません。「素質」はすぐに見つけられるものではなく、いろいろ試しながら、10年、20年と勉強を続けていくなかで、発見されていくものなのです。
大人への道
能力とか素質にこだわらなくなったら、思春期(からだが成長し、物に感じやすくなる年ごろ。中学生や高校生のころ)から大人への道を踏み出したといってもいいと思います。
年をとり、ある程度実績を積み重ねていれば、自分に素質があるかないかは気にならなくなってきます。なぜなら、自分とは実績の軌跡(ある人の人生や行いのあと)、つまり、やれたことの全部が自分であって、自分はそれ以上でも以下でもないと思えるようになってくるからです。
絶えず自分の「素質」に限界を感じながらも、ずっと努力を続けてきたからこそできた実績に、ささやかなプライドを持っているというのが健全(まともなようす)な大人の典型的な姿ではないかと思います。
思春期のこころ
しかし、一般的に言って、思春期では、「実績」がなく、自分というものを具体的な事実をあげて示すことが難しいため安定感(落ち着いていて、はげしい変化がないこと)がありません。ささないことで優越感(自分がほかよりすぐれていると思う気持ち)を持ったり、落ち込んだりするのはそのためです。そのときに、現実を無視して、自分には隠れた素質があるとばかり考えることも、逆に、少しばかり現実に困難を感じているからといって、自分には全く素質がないと考えることも、ともに危険です。どちらも着実な努力の障害になるからです。
周りにいる同年齢のほとんどの人は、自分や自分の能力とか素質とかに対して過敏(物事に対する感じ方がふつうよりするどいこと)になっていて、大きく揺れているだろうと思います。他人が気になってしかたがなかったり、他人がどう思っているかが気になってしかたがなかったり、他人と比較ばかりしているという人が多いと思います。
能力を向上させるには
ところが、少数ですが、同年齢なのに、ときおり落ち着いた人を見ることがあります。他人の評価(物事の価値を決めること)によって簡単には左右されないで、淡々と努力できている人です。
そういう人をよく観察してみてください。先に健全な大人の特徴として述べたのですが、自分の素質には限界を感じながらも、「自分としてはよくやってきた」、「こんなことができるようになった」と、ささやかに自分のやれてきたことにプライドを持っている人だろうと思います。自分を自分以上にでも自分以下にでもなく、正当に評価できれば、人は淡々と努力を重ねることができるものなのです。
「素質」×「勉強」=「能力」
「素質」は一定ですが、「勉強」の量は変えることができます。そして、「勉強」の量を増やすことで「能力」は向上するのです。
勉強に限らず、スポーツでも芸術活動でも優秀な人は必ず努力を積み重ねています。
「素質」×「練習」=「能力」
とも、言えます。
アメリカのピアニスト、ハンク・ジョーンズさんは2007年に88歳になったときに、
「いま、レパートリー(つねに演奏できる曲目)は2,000曲ある。しかしまだ知らない曲がたくさんある。」
と言いました。
「私はまだまだ向上したい。だから今でも毎日2、3時間はピアノに向かっている。練習をやめたいと思ったときが終わりなんだろうね。」
勉強のしかた
「うちの子は勉強の方法がわからないんです。どのようにして勉強すれば成績があがるのでしょうか?」
こういう質問をよく受けます。
質問してくる人は、ちょこちょこ勉強すればすぐ成績の上がるような勉強法、手間暇(労力と時間)かけずに、すぐ効果のあらわれるような方法を教えてもらいたがっていると思います。
しかし、そんなうまい方法はありません。
電子レンジでチン。お湯を注いで3分待てば、はい出来上がり。
そんなお手軽な勉強方法はありません。
「楽をして効果のあがる勉強法はぜったいにありえないと、まず覚悟をきめてかからなければならない。この覚悟が勉強の成果を支配する。覚悟のないところに実践はありえない。実践のないところに成果はぜったいに期待することができない」
と、元灘中学校・灘高等学校教諭の橋本武さんは、言います。
「勉強のしかたがわからない」と言う人は、「勉強の量が足りない」のです。「しかたがわからない」のではなくて、「じゅうぶんにしていない」のです。やはり「覚悟(困難ではあっても、絶対に実行しようと心を決めること)」が足りないのだと思います。
自分の井戸を掘ろう
日本人ボランティアが、井戸を掘るためにフィリピンのある村に行きました。高価な機械を使わない、昔ながらの日本の井戸掘りの方法を村人に教えました。
大きな岩は網を使って動かしました。1か月後、穴の深さは5メートルになりました。10メートルくらい掘れば水が出てくると思っていましたが、3か月が経ち、20メートル掘っても水はまだ出てきません。
それでもあきらめず作業を続けました。
井戸を掘り始めてから11か月経過したころ、きれいな水がこんこんと湧き出てきたのです!穴の深さは49.3メートルに達していました。
「素質」×「努力」=「能力」
「いくら掘っても水は出てこない」と言って途中であきらめていれば、井戸は完成しませんでした。
わたしたちも、あきらめずに勉強を続けていれば、素晴らしい「自分の井戸」が完成するのです。