大岩壁に挑む 高みを目指すのに必要なものは 山野井泰史&妙子さん
学び舎通信 92
大岩壁に挑む
グリーンランド東部にミルネ島という無人島があります。その島に標高差1200メートルの誰にも登られたことのない大岩壁がそびえ立っています。
2007年8月16日、この「未踏のビッグウォール」に日本人夫妻が15日間かけて初登頂しました。大岩壁に挑んだのは、登山家の山野井泰史さん(当時42歳)、妙子さん(当時51歳)です。
泰史さんは「世界最強」と呼ばれた登山家です。1994年、チョー・オユー(8201m)、2000年、世界第2位の高峰K2(8611m)をそれぞれ単独でしかも無酸素による初登攀に成功しています。泰史さんの登攀は、どれも山岳史に残る記録でした。しかし、その記録は、2002年、ヒマラヤ・ギャチュンカン(7952m)登頂以来、ほとんど途絶えていました。下山中、雪崩に襲われて凍傷で両手と右足の計10本の指を失ったからです。
妙子さんは外国の山岳雑誌に「世界で最も才能のある女性登山家」書かれることもあります。登山テクニック・体力もさることながら、高所・低酸素の状況下でもマイペースでいられる強靭な精神力が強みです。妙子さんは、泰史さん以上にハンデを負っています。1991年のマカルー(8463m)、そして泰史さんと一緒に登ったギャチュンカンで2度にわたって凍傷を負い、両手両足合わせて18本の指を切断しました。妙子さんの両手には、指らしい指が1本もありません。
ハンディキャップを乗り越えて
18本の指を失ったことで、妙子さんは悲観的になりませんでした。戻らないものは仕方がない、大事なのはこの手でどのように生きていくかいうことだけだ、と考えたのです。
「いろいろと大変ではあるけど、今まで1の時間でできたことを10の時間でやればいい、と思ったから。周りの人は私ができないのを見てイライラするかもしれないけど、私はゆっくりやればいいと思っているから、気にならないの。できないことはあるけど、できることもあるから。できることをすればいいんじゃない」妙子さんは18本の指を切断した手術のあとも、体を動かせるようになるとすぐベッドの上で腹筋をし、歩けるようになると階段の昇り降りをして、リハビリに努めました。時間が経つにつれて、指を失った手の使い方がうまくなりました。煮物をするために固いカボチャが切れるようになり、服の縫い物ができるようになると嬉しく思いました。
ハンディキャップを負いながらも、妙子さんも泰史さんも山登りをやめませんでした。淡々と体力トレーニングを続け、何度も山に通い、今の体でも登れる方法を模索し続けました。そして、周囲の人々はもちろん、本人たちでさえも絶対不可能と思っていた岩登りができるようになりました。
指を失っても、やはり何度か繰り返し登っているうちに登れるようになる。自分が成長していることがはっきりわかる。それは素朴に嬉しいことでした。
高みを目指すのに必要なものは
泰史さんは、若いときから世界の第一線で活躍してきた登山家です。大勢の登山隊で登ることを良しとせず、独りで登り続けてきた男。スポンサーをいくつもつけることや、マスコミに大々的に取り上げられることを嫌う孤高の人です。
誰も挑んだことのない大岩壁。こういう大きな壁で、頂まで行くのに何が必要なのでしょうか。
「最も重要なのは強いモチベーション(目標を達成しようとする気持ち)。あきらめるとかあきらめないとか、そういうんじゃなくて、ただ単に、この先に上がりたい、頂近くまで登ってみたい、そういうモチベーション。技術云々よりも、それが最も重要だと思います」と泰史さんは言います。
二人の静かな生活
山野井夫妻は、東京の奥多摩駅から車で20分ほどの奥多摩湖の近くに住んでいます。築50年以上たった平屋造りの貸家です。二人が今の家に初めて訪れたときは、人が住める状態ではありませんでした。友人の手を借りて、自分たちで修復を行いました。
斜めにかしいでいた柱をまっすぐに戻し、穴のあいた壁や天井に板を張り、擦り切れた畳を替え、雨漏りのする屋根を葺き直しました。壁にペンキを塗り、二人の名前の入った郵便受けを作り、庭には山で拾ってきた石に泰史さんが動物の姿、昆虫などを描いたものを置いています。二人とも動物や昆虫が好きで、金魚を飼育しています。
家の中は綺麗好きの妙子さんが毎日掃除をして、常にきちんと片づいた状態になっています。 妙子さんの1日は裏庭にある家庭菜園の草むしりから始まります。起きるのは朝4時か5時ごろ。一度目が覚めると、いつまでも寝ていられないそうです。小型のラジオをぶら下げて裏庭へ向かいます。指のほとんどない手で器用に鎌を使いながら、雑草を刈っていきます。6時を過ぎるとラジオを片手に、家の裏山にある小さな神社へ向かいます。誰もいない境内でラジオ体操をして、柔軟体操やジョギングをして帰ります。
妙子さんは山にいることがもちろん一番好きですが、家事や家庭菜園での農作業も好きです。もし山に登れなくなったら、野菜を育て、家の中で炊事・洗濯・掃除・縫物などをしているだけでも、満足して暮らしていけると思っています。自分たちで食べる分の野菜は家庭菜園で大半まかなえます。山に入れば、山菜やキノコが採れます。店で買わなければならないのは肉や乳製品、卵などです。月の食費は二人合わせても2万円足らずで済みます。
年に何度か海外遠征に出かけるので、二人とも定職につきませんでした。泰史さんは富士山の強力仕事や山岳雑誌の原稿料、登山用品メーカーのアドバイザー料で収入を得ます。妙子さんは御岳山の宿坊でパートとして働きます。そして妙子さんがやりくりして貯金したお金で二人は遠征に出かけます。最近の年収は、300~400万円ほどです。講演会やマスコミの仕事、スポンサーになりたいという申し出をもっとたくさん受ければ収入は上がるのでしょうが、お金と引き替えに今の静かな暮らしが失われるのは嫌だと、二人とも思っています。
家賃・光熱費・生命保険料・食費・車の燃料代などを含めても、やりくりすれば月に10万円もあればやっていけます。海外遠征の貯金も十分にできます。
妙子さんは物持ちがとてもいい。泰史さんも物は大切にします。使えるうちは捨てません。妙子さんは服が汚れたら綺麗になるまで洗い、破けたら繕い、何年でも使います。今着ているフリースも、10年間ずっと着続けています。妙子さんはものを無駄にすることが嫌なのだといいます。
自然の中にごみを捨てることも絶対にしません。万が一、登山中にうっかりごみを落としたら、必死になって探し出します。他人が落としたごみを見つけたら、拾えるだけ拾って持ち帰ります。
単独で登る理由
泰史さんはもの静かで穏やかな人です。
「自分で判断して行動したい。山でたくさんの人と意見を交換するのはあまり気持ちよくない。他人の判断が間違っているとかではなくて、自分で決断して自分で行動したいという思いが強いんだと思う」
指を失う以前の泰史さんは、困難な山に、人が登っていないルートで、自分の体力・精神力の限界にどこまで迫れるか、挑戦し続けてきました。泰史さんはそのことを『垂直の記憶』に書いています。
「いろいろと考えて、何日目かには解決するということを、知っている。長年クライミングをやってきて、できない動きを何度も何度も繰り返していると、ある日できるようになる。それを知っているからまた続けられるんだろうし、やっぱり、何日目かにできたときには、ちょっと感動するよね」
全てを自分で決めて行動したい、という泰史さん。
その気持ちがあるから、スポンサーもほとんどつけないのだと言います。スポンサーがつけば、お金を出してもらっているので何が何でも登頂に成功しなければというプレッシャーや焦りが生じます。
自分が好きな山を、自分が試してみたい登り方を純粋に追求していたい。自分の貯金を取り崩して遠征に行けば、誰からも文句は出ません。
以前と比べて登る能力は落ちていますが、山に向かうときの姿勢、上を目指したい、限界に挑みたいというモチベーションは今も変わっていません。
「どういう動きをしたらいいか、自分で想像してそれを実行に移して、難しい部分をこなしていく。そんなに速いスピードじゃないけど、一手一手考えて、足もどうしたらいいか考えて、あきらめずにジワジワと登っていると、気がつくと何百メートルも登ってろわけでしょう。1000メートルクラスの壁でも上がっちゃうわけでしょう。すごいなあ、人間って」
作家の沢木耕太郎さんは山野井さん夫妻を描いた『凍』にこう書いています。
「これは絶対に登れないだろうなと思っていたルートが、諦めないで登っているうちに何週間かで登れるようになる。新しい筋肉がつくには2か月は必要だと言う。だから、筋肉がつくことによって登れるようになるのではないのだろう。失敗しても失敗しても登っているうちに、あるとき脳のどこかが、ここは登れると思うようになる。そこと手足の神経が結びついたとき、登れなかったはずのところが登れるようになるに違いなかった」