どう生きるのか 力が出たときに輝く

学び舎通信 75

目次

どう生きるのか

みなさんは、「わたしはどうして生まれてきたのだろう?」とか「生きるということはどういうことなのだろう?」と考えたことはありませんか。

私は、小学校の5年生から6年生のころに自分の存在の不思議さを考えたことがあります。

今から約2,400年前のギリシャに、ソクラテスという人がいました。哲学(世界や人生の根本原理を理性によって研究する学問)の祖(ある物事をはじめた人)と言われている人です。

「知っていて悪を為す者はいない」

「人生の目的は善く生きることである」

これらは、ソクラテスの言ったことばです。

たいていの人は、

「自分は悪いことと知っていて、悪いことをしているのではないか?悪く生きてはいないようだが善く生きてもいないのではないか?」

などと、思うときがあるのではないでしょうか。

ソクラテスは、アテネの街角で市民や青少年に、

「もし悪いと知っているのなら、どうして君は悪いことをするのかね。悪いと知っていて悪いことをする者は、それを悪いとは知らないのだ。悪いことをする悪い人生は、善い人生ではあり得ない。善い人生を生きることを望まない人がいるものかね」

と問いかけました。

ソクラテスは、悪徳政治家や権力者にも相手かまわず追い詰めました。

「君は。悪いことをする悪い人間だ。人間は、必ず善い人間であるべきだ」

生きる目的は、善く生きること。成長することです。人間は頭をつかって考えることができます。よく考えれば、善く生きることができるはずです。

賢くなるには

「ケータイなしでは生きていられない」という女の子がいました。その子は中学3年生のときに携帯電話を買ってもらい、そのとたん、それに夢中になってしまいました。真面目で熱心に勉強する子でしたが、勉強していた時間が、電話で遊ぶ時間に変わったのでしょう。それまで伸び続けていた成績も、停滞(同じ所に止まっていて先に進まないこと)してしまいました。

用もないのに電話をかけたり、することがないのでメールを出したり、携帯電話で常に何かをしていたい。常に他人とつながっていたい。つながっていないと不安を感じるらしいのです。

しかし、ひとりでいること、すなわち孤独であるということは、それ自体が充実した、非常にいい時間なのです。不安に感じることなどないはずです。もしそれが不安であるとしたら、それは自分との付き合い方を知らないためです。

人は、他人と付き合うよりも、まず、自分と一生付き合っていかなければならないのだから、自分との付き合い方を知らないのは、一生の損失(損をすること)になります。

早いうちから携帯電話やパソコンが当たり前になっている子どもたちは、ひとりでゆっくり考える時間を持つことはできません。

ひとりでゆっくり考える時間がなければ、人間が賢くなれるはずがありません。

新しい機械に慣れることは社会で生きていくには、必要なことかもしれません。しかし、その前に、携帯電話よりも、パソコンよりも、優秀な自分の頭脳を鍛えておかなければならないのです。携帯電話やパソコンの扱い方の練習は、もう少し大きくなってからでも間に合います。しかし、頭脳のトレーニングは大きくなってからでは難しいのです。

機械の操作が上手になっても、賢くなることはできません。賢くなるには、ひとりでゆっくり考える時間が必要なのです。

齢を重ねる

「よわいをかさねる」と読みます。年をとるという意味です。

子どものころの私は、年をとるということと、賢くなるということは、同じことだと思っていました。

子ども心に、「人生の価値(ねうち)は、賢く生き、より賢い人間になることにある」と、思っていました。

30年前は、どこにも「老賢者」と呼ばれる人がいました。そのような人を見て、自分もあのようになりたいと願っていました。

年をとるということは、姿や形の問題ではありません。年をとるということは、内容(なかみ)の、精神(こころ)のありようのことなのです。

何を価値としてその人はそこまで生きてきたか、年をとるごとにそれが現れてきます。その意味ではそれは恐ろしいことではありますが、面白いことでもあります。

みなさんはまだ成長の途中ですが、11歳なら11年間の、14歳なら14年間の生きてきた人間、つまり、何を考え、どう行動してきたかの結果としての現在の自分が出来上がっているのです。

「今の自分はあまり好きではないな」と思っている人は、これから「こんな人になりたい」と思って、考え方や行動を少しずつ善く変えていけば、自分の思い描いている人になれるのです。人間の素晴らしいところは、努力次第で自分を善く変えられるということです。自分で「善い自分」をつくることができるのです。人生の作品は、他でもない自分自身だということです。

善く生きるには

私が中学生だった30年ほど前、中学校で教えていた20年くらい前、学び舎を始めたころの10年前、そして現在の社会の様子を比べてみますと、残念ながら、良くなっているとは言えません。

そんな中で善く生きることは、難しくなってきているのかもしれません。それでも、私たちは善く生きなければならないのです。

「人生の目的は善く生きることである」からです。

では、どうすれば善く生きられるのでしょうか。

私たちは、ひとりひとりは、時代や社会のことなど気にする必要はないと思います。人は自分のことだけを思って生きればいいのです。

ひどい時代、悪い社会の中だからこそ、「自分だけは、私だけでも、善く生きよう。善い人間として、善い人生を全うしよう(最後までりっぱにやりとげる)」と、それだけを心がけて生きればいいのです。

たとえば、みんながだれかの悪口を言っている時に、「私は人の悪口は言わない」と決めるのです。

難しいようで、案外簡単なことだと思います。

要するに、時代や社会を、つまり他人の言うことやすることを、気にしなければいいだけなのです。 

他人を気にして、他人と幸福を競おうとするから、人間は不幸になるのです。

「生きているのは自分なのだ、自分だけの問題なのだ」と気がつくなら、幸福になるというのは、そんなに難しいことではありません。じつに清々しい(さわやかでからだや心がせいせいする)心持ちで、毎日を過ごすことができるのではないでしょうか。

力が出た時に輝く

人間の生き方を、大きく二つに分けるとすれば、次のような生き方が考えられます。

一つは、努力に努力を重ねて自分の信念を磨き上げ、それを貫き通す生き方。

もう一つは、とにかく楽に生きることを目標にして信念を放棄する(持たないようにする)生き方。

オルテガという人は、前者のような生き方をする人をエリート(選び抜かれた人。優秀な人)と呼び、後者の生き方を選び取った人を大衆と呼びました。

エリートの生き方は、自分の心の強さを実感するところから始まります。

「自分はより強いがゆえに、どこまでも困難な課題と過酷(きびしすぎるようす)な試練(実力・精神力をためすこと)を要求する。他人はより弱いがゆえに、それほどの課題も試練も要求しない」と思って、力を出そうとする人です。

だが、大衆はまったく逆の立場を取ります。

「他人は強いから過酷な課題をこなすことができ、こなさなければならないのだが、自分は弱いからそれが免除(義務や役目などを、しなくてもよいとすること)されてあたりまえなのだ」と思って、力を出そうとしない人です。

植物は、花を咲かせる時にかなりのエネルギーを使う、と何かの本で読んだことがあります。エネルギーを使うからこそ、花は美しく咲くのだと。

人間も同じようなことが言えます。

一生懸命勉強している時のみなさんは、光り輝いて見えます。みなさんの体の中からエネルギーが出ているので光り輝いて見えるのだと思います。『学びの記録』にも「きょうはやる気まんまんでした。問題がすいすいとけました。つぎもがんばりたいです」と書いている子もいます。

だれでも、「よし、がんばろう!」と思うことができます。毎日毎日そう思っていると、必ずそれが自然な心の持ち方に変わってきます。そうすれば、毎日の生活が輝いてくると思います。

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学び舎タイムズ編集部

教職歴37年。中学・高校教諭、予備校講師を経て、1996年6月に小さな個人塾を開塾しました。
「将来的に役立つ学力を身につけた子どもを育てたい」という想いから生まれた、こだわりの天然木造教室は保護者からも好評です。

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