勉強で心の素直さを身につけ人格を整える 福沢諭吉と孔子
学び舎通信 88
10代は非常に重要な時期
小学4年生から中学、高校にかけての10代は、ものを吸収するのに最適な時期です。10代にやらなければ身につかないことがたくさんあります。この時期に自分の力をできる限り発揮するといいです。
棋士の羽生善治さんは、「10代は非常に重要な時期。何かを犠牲にしないと、モノにならない」と言います。「もちろん、エンジョイするのも一つの道です。ただ、何かをやろうと思った時、10代というのは、すごく大事な時期だと思います。いろいろな基礎を固める。将棋でいえば、『長い時間考えても疲れない持久力』『正確に早く、狭い所を読み切るスキル』とかそういうこと。定跡(長年の研究で公式化された手順)や手筋などの「知識」は20代以降でも身に着きますが、抽象的な判断や証明できない感覚的なものは10代の時にしか身に着かないと思います。私の10代に、青春はなかったですね。将棋にものすごい時間を割き、濃密な時間を過ごしました」
何かを身につけようと思えば、時間をかけて取り組む必要があります。中途半端(物事を途中でやめて完成しないこと)なことをしていれば、何も身につかずに終わってしまいます。光陰矢の如し。月日の過ぎるのは早く、しかも二度と戻りません。
知性を身につけるには
知性(物事を論理的に考え、判断する心の働き)とは何か漠然と、持って生まれた才能の一つであるかのように思っている人もいるかもしれませんが、それは違います。知性とは日頃のトレーニングで身につけるものです。
「飛ぶことを学んで、それをいつか実現したいと思う者は、まず、立つこと、歩くこと、走ること、よじのぼること、踊ることを学ばなければならない。
最初から飛ぶことばかりでは、空高く飛ぶ力は獲得されない」(中公文庫『ツァラトゥストラ』)
これはドイツの哲学者ニーチェの言葉です。ニーチェは、少年時代から苛酷な勉強をしていました。ニーチェのような独創性に満ちた考え方は、自分で計画した日常の厳しい訓練や学習があって初めて生まれます。立つ、歩く、走る、よじのぼる、踊る、飛ぶ、に表現されるように、ニーチェは膨大な量の「学び」を行ない、文献学者として砂を噛むような(なんのおもしろみもなく、あじけないことのたとえ)地道な作業の繰り返しの毎日を過ごしました。
みなさんのしている勉強の大半は、砂を噛むようなトレーニングの繰り返しかもしれません。しかし、「おもしろくない」と言って投げ出してしまえば、「空高く飛ぶ力」は獲得できません。勉強が嫌いだとか苦手だとか言っている人は、心構えが十分ではありません。「なんとしてもやる」という心構えがないので、地道なトレーニングができないのです。一つ一つのトレーニングをすることは、高みを目指して一歩一歩坂道を登っていくのと同じなのです。
福沢諭吉の勉強
江戸時代の末期、緒方洪庵の適塾で学んだ福沢諭吉は、勉強の仕方を『福翁自伝』に書いています。
オランダ語の原書など、当時、本は大変貴重なもので、塾生は寝る間も惜しんで引き写しました。諭吉は、その作業について、「根あらん限り」写し、「宝物の正味を偸みとった」と書いています。このように盗む感覚で、貴重な知識を吸収していったのです。しかも、自力で「読み砕かなければならぬ」としています。「砕く」ほどの勉強とは、どんなに苦労を傾けたものだったでしょう。
諭吉や塾生たちには、勉強すること、それ自体が楽しかったのです。先のことばかり考えて、目的のために勉強するのは真の勉強ではない、むしろ、目的のない勉強がいいとも述べています。勉強を将来の道具と考え、即効性の高い勉強法を求める現代の人たちと、勉強が生きることであった諭吉たちとは、そもそも学ぶ意味が違っているように思えます。
また、この時代、オランダ語から英語へと主流が移っていくのですが、オランダ語を一心不乱(心を一つのことに向けてわきめもふらないこと)に勉強してきた諭吉にとって、これは大変ショックなことでした。それでも、気を取り直して英語を学んだところ、結局同じだったことに気づきます。それは、オランダ語を徹底的に勉強し身につけた力は、自ずと英語にも応用でき、無益ではなかったということです。
一度学問の方法論を身につけると、他の勉強にも応用できたのです。つまり、適塾での勉強によって学ぶこと自体が身についていたということです。諭吉は落胆の底から、そのことに気づいたのです。「人として価値ある生き方は、学ぶ生き方である」と諭吉は『学問のすゝめ』に書いています。学ぶ意欲を持つことが、人間として最も大事だと説いています。
勉強で心の素直さを身につけ人格を整える
優れた人は、必ず優れた勉強法を持っています。勉強は、知識を得ることよりも、その過程(物事が移り進む途中の段階)で身につくものが大事です。もし、「勉強で得られるものが、心の素直さを身につけることだ」と言える人がいたら、かなり優れた勉強法の実践者だと思います。その人は、あらゆる勉強が心の素直さを要求することを知っているからです。
現在は、体系的な受験体制が組まれていて、そこからはみ出す勉強をしない人がいます。そういう人は自分で勉強を組み立てることができません。たいして本を読まなくとも志望校に合格する人もいます。しかし、実際は、そのシステムから飛び出すぐらいのエネルギーを持ち、本を豊富に読んでいる人たちのほうが、覇気(進んで物事をなしとげようとする意気込みや気構え)があり、将来伸びていきます。勉強の根っこに、知的好奇心があるかないか、その差は後の人生に必ず大きな影響を与えます。
人格(その人の品格。人柄)と勉強は関係ないように思われますが、人格と学びは切り離せない関係にあります。人格とは、前向きで建設的なものです。「人としての格(ようす。おもむき。味わい)」は生まれつきというよりは、学びによって練られ向上していきます。好きな勉強を続けていれば、自然と人格が整ってきます。
学ぶことを楽しむ
今から約2500年前の中国に孔子という思想家(人生や社会などについてすぐれた思想をもっている人)がいました。孔子は人間としての正しい生き方をやさしい言葉で語りました。多くの弟子を育て、孔子の行いや教えは『論語』という本になりました。人間が自分の良心に従って生きることを説いています。
孔子の説く教えでは、学ぶことが最も重要なことであり、学び続けることによってこそ、素晴らしい人格がつくられる、とされています。孔子には、学ぶことを楽しむのが一番だという考えがあります。
「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(岩波文庫『論語』第六の二十)は有名な言葉ですが、ここに孔子の学問への思いが端的(はっきりしているようす)に表わされています。つまり、学んで知っているだけの状態ではまだまだで、その先に学問を好む状態、さらには学問を楽しむ状態があると言っています。
では、孔子がいう学問を楽しむとはどういうことでしょうか?それは、まるで子どもが時の経つのも忘れ、一心不乱に泥遊びをするように、学問の世界に入り込んで遊ぶことではないかと思います。学問を自分に取り込むのではなく、自らが学問の中に入って一体化してしまう。そんなふうに学問の中に没入(一つのことに夢中になること)することが、孔子の理想とする姿だったのではないかと思います。
学ぶということは、自分をつくることです。時間がかかり辛抱もいるのですが、それを楽しんで続ければ、素晴らしい人格がつくられると思います。
学ぶことと考えること
「学んで思わざれば則ち罔し。思うて学ばざれば則ち殆うし」(『論語』第二の十五)というのは、孔子が学ぶことと考えることの関係について述べたものです。勉強の定義(ことばの意味を正しくはっきり決めること)のようなものです。要は、学問を学んでも、自分で考えることをしなければ、物事ははっきり見えてこない。逆に、考えることが好きでも、きちんと学ぶことを怠ると、独りよがりに陥って危険である、という意味です。学ぶだけでも考えるだけでも、それひとつでは足りません。学ぶことと考えることを両輪にして、バランスよく進むべきだと言っているのです。
知るということ
孔子は、学問を「知っている」だけではまだまだ不十分と言いましたが、では、“知る”とは、いったいどういうことなのでしょうか?
「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」(第二の十七)。これは自分の知っていることと知らないことをはっきり示せて初めてそれを知っていると言えるという意味です。
知らないことは知らないとはっきり言えることが大切です。しっかり勉強している人は、自分はどこまでわかっていて、どこから先がわかっていないかを認識しています。そういう人の質問ははっきりしているので、教えるほうも的確(的を外れないで、確かなこと)に導くことができます。
わかっていることとわかっていないことをいつも確かめながら進むことが大切なのです。