自主自律 よりよく生きる
よりよく生きる
病気になったことがなく、貧乏も知らないで、苦労や不自由を経験したことがなければ、薄っぺらな人間になるかもしれません。不幸せな境遇を乗り越えようとすることで、人の心の深さを知ったり、人情の機微にふれたりして、人生を深く味わえます。
人より楽をしよう、怠けよう、自分だけいい思いをしよう、という気持ちを持っている人がいます。また、威張っていたい、自分を少しでも良く見せたい、権力を持ちたい、お金が欲しい、物が欲しい、という欲の深い人もいます。
「今日の一日を精一杯生きていこう」と自分を励ましながら生きている人がいます。「今日一日ぐらいはサボってもいいかな」と自分を甘やかしている人もいます。気持ちの持ち方で、長い間に大きな差が出ます。「今日という日の積み重ねが人生なのだ」と知ることです。人生を良くするのも悪くするのも、幸福になるも不幸になるのも、置かれた環境や能力よりも、ものの考え方によって人生が決まります。
自分の頭で考えるためには、その材料である知識も重要です。知識が乏しくては自分の考えを豊かに拡げることはできません。「本が知識の宝庫である」ことを知って本に親しむといいです。様々な読書体験をするうちに、「大切なのは単に生きることではなく、よりよく生きることだ」とわかるときが来ます。
ときが熟するのを待つ
教師にとって何もしないことが一番難しい。「あれも教えようこれも教えよう」とするよりも、教師がただ座っているだけのほうがはるかに教育的です。教師が安定して座っている姿を支えにして、子どもたちは自主的に動き出し、自分の力で学び始めます。
親や教師の中には、「子どもに充実した時間を与えてやろう」と思って、「このこともやらせよう、あのことも教えてやろう」と詰め込み教育をする人がいます。ところが、親や教師が詰め込み教育に熱心になればなるほど、子どもの主体性は奪われます。子どもはいろいろなことをしていながら、指示に従うだけの厚みのない時間を過ごすことになります。
時計で測る時間にとらわれ、能率にこだわると、「能率的教育法」という名のもとに、子どもの主体的な時間を奪うことになります。子どものことを考えて、何かしてやるつもりでいながら、結局は子どもが自分の頭で考える時間を奪っているのです
親や教師が、子どもに口出しや手出しをしたいときに、ただ座って見ているだけというのは教育的であるのですが、実行するのは難しいです。しかし、子どもが主体的な時間の体験をするためには、大人はできるだけ不要な干渉をしないで、「とき」が熟するのを待たなければなりません。優れた親や教師は、「ときが熟するのを待つ」ことを知っています。
愛情を与え過ぎることは、「子どもを支配したい」という欲望の裏返しになることがあります。子どもの人格を認め、子どもの考えを尊重しなければ、子どもは幸せにはなれません。
自主自律の志
親や教師がものや指示を与えるだけでは、子どもは受け身一方となり、自分で生き方を考えようとしない、自分の力で人生を切り拓こうとしない人間になります。自分以外の何ものかに頼ろうとする心があれば、自己確立の志は芽生えません。
何事をするときでも言うときでも、澄み切ったはっきりとした気持ちでいることを心掛けている人の心は濁っていません。そういう人は、どんな小さなことをするときにも必ず気持ちを打ち込んでいます。
急ぐことや面白みのないことや慣れたことをするときに、気持ちを注がないで逸れて行く、気が散るという状態になる人がいます。が、気持ちを打ち込んでする人は、気が散るということがありません。
自分の心に良い習慣をつけるように努力します。気持ちがまとまるように、気を散らさないで、気持ちを打ち込んで、澄み切った、はっきりした気持ちで心を遣います。気持ちを打ち込んで心を遣うという心掛けで生きていると、物覚えも良くなります。
大抵の運命は自分が努力すれば打開のできる場合が多いです。自主自律という人間として一番大切な志、自分に対して堅持しなければならない高い心を持たないで、何かにすがろう、何かに救われようという依頼心を持つのはよくありません。自分自身の力で人生に光明を見いだすには、心の態度を積極化することです。心に喜びと感謝の気持ちをみなぎらすことを心掛けると良い方向に進めます。