心の居場所 自由な学び
心の居場所
子どもに早く知識を教え込もう、早く覚えさせようとする大人がいます。そういう大人は、「子どもは自分の力で育つ」ということを知りません。ああしてやってこうしてやって子どもを幸福にしようと思う人は、「子どもの生きる力」を忘れています。
大人が先取りすると、子どもが本来持っている生きる力を行き詰まらせてしまいます。大人が子どもを育てることに一生懸命なのはいいのですが、「これをやりなさい、あれをやりなさい」という形で、圧力が高くなると、子どもは息苦しくなります。
自動車やコンピュータは、教えられたとおりに操作すれば、ちゃんと走るし、答えが出ます。子どもを教育するときにも、そういう感覚で臨んでしまう親や教師がいます。そうなると、親子の間でも教師と生徒の間でも、子どもはノウハウに操られることになります。しかし、「子どもは生きる力を持っている」ということがわかっていれば、ノウハウに頼ることなく、愛情で子どもを育てることができます。
子どもの力を信じていない親や教師は、家でも学校でも子どもを操作しようとします。子どもには「ここに居たらいいんだ」と思える場所が必要です。親や教師が測定できるものや能率的なものに頼ると、子どもの心の居場所がなくなります。心の育ちに必要なものは、目に見えない、測れない愛情です。
自由な学び
子どもを自由にして子どもの動きをよく見ていると、「おもしろいことをやっているな」とわかります。大人が教えようとしすぎてはいけません。無駄な勉強が多すぎます。細かいことを覚えさせたり、早くやらせたりして、子どもから自由を奪っています。
「個性は自ずから育つ」とすると子どもの個性を尊重するには、大人は子どもの自由で自主的な行動を見守るべきです。決まり切った知識を早く詰め込むことによって、子どもの個性が壊れてしまいます。
「親の敷いたレールの上に子どもを乗せる」と言いますが、日本の大人は、子どもを自分の考える「良い子」に仕立て上げようとして、早くから知識を教え込んだり、技術を身につけさせようしたりします。その結果、子どもは、自由に遊ぶ機会が少なくなってしまいます。子どもは自分自身の自由な世界をどんどん奪われていきます。「子どもを見守る」ということは、その子に対して何かをするよりもはるかにエネルギーがいることです。意志が弱いので世間の言うとおりやっている大人が多すぎます。
日本では「教育」という言葉が子どもの自由で楽しい動きを抑えつけています。「勉強しないとひどい目に遭うぞ」ということを親や教師は決して口にしてはなりません。学ぶことは子どもにとって喜びでなければならないのです。賞品で子どもを釣ったり、恐怖で子どもを脅したりしても、子どもの知的な能力は絶対に向上しません。学びの場は、「自分の知的な限界を踏み出してゆくことは気分のいいことだ」ということを発見するための場であるべきです。
子ども時代の記憶
心をもらわないでお金をもらうというのは、子どもが悪くなる最悪の方法です。子どもがしてもらいたいのは心のほうなのです。子どもと遊ぶのだったら、大人もおもしろくないといけません。
私の子どもの頃は、子どもは子どもなりに家事の手助けの仕事がありました。不便であったり、貧しいものであったり、と言えることなのですが、それら全体の中に子どもをうまく育てていくための仕掛けが隠されていたように思います。生活が便利になることや物が豊かになることはいいことです。しかし、便利さや豊かさによって失われる大切なことに気づかない人が多すぎます。親が一生懸命働いて子どもに与えているものが、子どもの心を深く傷つけたり、自由を奪ったりすることがあります。
進歩や発展でどれだけ幸せになったのかを考える必要があります。科学技術の進歩によって暮らしの効率が上がったかもしれませんが、そもそも幸せとは効率が上がることなのでしょうか。進歩や発展という言葉を信用しすぎてはいけないと思います。
山や野原に植物が残るように、これ以上地面を削ってコンクリートで固めないようにしなければなりません。子どもはバッタやチョウやトンボやセミやメダカやカエルと一緒に遊べば、情緒が豊かになります。野原を駆け回ったり、裸足で海岸の砂浜の上を歩いたりした記憶。生きものを手で触った記憶。そんな記憶を子ども時代につくっておくべきです。大人は子どものために、日々の暮らしで生命を肌に感じることができる地球を残すべきです。