卒業生からのメッセージ 2022 修養のために学ぶ
視点を変えて考える
昔の日本人は自然を敬い恐れていました。自然を征服しようと考えず、自然の力をうまく利用して生きていました。山も川も海も木も石も全てのものに、人知の及ばない力を感じ、神として敬いました。
人工物に溢れている都会は、便利で豊かかもしれません。しかし、人から与えられる楽しみより、自分で楽しみを創造するほうが面白いし、人や社会に振り回されることなく、生きていくことができます。
週に一度山に登ります。春から秋まではトレイルランニングシューズを履きます。底が薄いので足を痛めないように、注意しながら歩きます。登山靴であれば見逃していたかもしれない危険物に気づくようになります。大地に接する足裏が敏感になり、自然との精神的、肉体的なつながりが感じられます。
枝や葉だけを見るのではなく木全体を見ます、さらに森を見ます、そして高所から森全体を見渡します。視点を変えることで、物の見方が変わります。
日常生活でも、目の前に立ちはだかる壁(困難なこと)は本当に壁なのでしょうか。離れて見れば、障壁に見えていたものが、「壁ではない」と気づくことがあります。近視眼になり過ぎていると何でもないはずのことが壁に見え、行き詰まったと感じてしまいます。人生には、視点をミクロからマクロへ変えることで、克服できることがたくさんあります。
修養のために学ぶ
進学塾の講師をしていた頃、教室に詰め込まれ指示通りに勉強している子どもたちが勤め人のように見えました。伸び伸び過ごせる人生の黄金時代を、競争心を掻き立てられ、勉強させられていました。
自分で学習計画を立ててこつこつする勉強は、素晴らしいけれど、他人に指図されて強いられた勉強は、時間と労力を消費するだけで身につきません。
自分の人生を自分の力で生きようとしている人は、自分の人生を支配しようとする人に反抗します。また、社会や世論に影響されずに自分の考えで生きていこうとする人は、他人を支配しようとはしません。
人間の値打ちは、その人の行いによって決まります。社会的地位が高いから偉いわけではありませんし、金持ちだから立派な人間ではありません。知識があるから尊敬されるものでもなく、学歴や身分によって敬われるものでもありません。その人がどのように生きたか、どう考え、何をしたかが大事です。意志を持ってする行為で人間の値打ちが決まります。
『論語』に「むかしの学んだ人は自分の修養のためにした。このごろの学ぶ人は人に知られたいためにする」という言葉があります。「生まれたことを、この世に学びに来ている」と考えると、「多くのことを学んで、いろいろな経験を積み、毎日を精一杯生きよう、善く生きよう」と思えるようになります。
人が生きているのは、心があるからです。人の心は、ゆったりとゆるやかにいられるようにすべきで、せかしたり狭めたりすべきではありません。人の心は、清らかで静かであることを喜びます。
学び舎に通って
Nさん
私が学び舎に通い始めたのは中学1年のときです。みんなの集中力がすごかったし、「勉強する」という雰囲気があったので学び舎に通うことに決めました。
私は勉強が苦手でしたので、テストで良い点数をとる科目は少なかったです。中学1・2年のときは、勉強に対する危機感を持っていませんでしたので、テスト前でもあまり勉強しませんでした。
中学3年になって自習するために毎日学び舎に通いました。でも、宿題をするだけで受験勉強をしませんでした。初めて受けた模擬試験で志望校の合格判定はDでしたので、受験勉強に対して危機感を感じました。11月の進路懇談で、担任の先生から、「第1志望の高校の合格は難しいです」と言われました。
ショックでしたので受験が終わるまで自分の趣味や好きなことを全部やめて受験勉強に打ち込みました。くじけそうになりましたが、家族や久保先生の支えのおかげで、私は最後まで頑張ることができました。
受験の前日、久保先生が言った「合格できます。自信を持って受験に臨んでください」という言葉を信じて、私は受験に挑みました。私は第1志望校に受かることができました。とても嬉しかったです。
久保先生、3年間ありがとうございました。
不安になっていた私にいつも優しくしてくれて、とても嬉しかったです。合格の報告をしたとき、喜んでくれましたね。高校生になっても、その先の人生も自分らしく頑張って生きていきます。
私のことを忘れないでください。私も先生のことを絶対に忘れません。3年間お世話になりました。