灘卒東大生が幼い頃に読んだ本
読んだ本のことなど
幼いころから本に囲まれた生活をしてきました。
ですから、自然と本が好きな人になりました。本を買ってくるのは決まって父親でした。それこそ、毎日と言っていいほど新しい本が増えていました。「これを読んでみたら?」というようなことは言わずに、さりげなく机の端や本棚の続きに新しい本が置かれていました。
本を読むのはたいてい朝でした。
家で話し合って読書時間として決めたわけではありません。父が毎朝本を読んでいるものですから、私もその隣で本を読んでいるうちに、徐々に習慣づいてきたのだと思います。家族で朝食を食べると、いそいそと2階の和室へ駆け上がって読書に没頭しました。こうして、学校に行くまでの時間を読書に費やしていました。
本はほとんどが岩波少年文庫でした。最初はオレンジ色でしたが徐々に青色が増えてきました。
日曜日の午後になると図書館に連れていってくれました。
いつもワクワクしていました。とりわけ熊取の図書館は広くて本の数も豊富なので大満足です。家にない本はここで借りました。
子どもの頃に読んだ本の情景は今でも心の奥底に息づいています。
振り返ってみると『ドリトル先生』のシリーズは印象的でした。全部で10冊以上もありました。私は当時からシリーズものは好きではありませんでしたが、『ドリトル先生』は違いました。毎回、動物と一緒に冒険に出かけるのですが、あまりに愉快で滑稽な話に引き込まれました。挿絵も好きでした。
何度も読み返した本
本は一回読んでそれで終わりではありません。
何度も読み返すからこそ味が出てくるのであり、深みが増すのだと思います。書棚の傍らに立って、本の背表紙を眺めながら、その本を読んでいた時の心境や光景、展開される内容を思い浮かべるだけでも楽しいものです。
私の少年時代は『ファーブル昆虫記』がすべてだと言ってもいいほどです。
父に昆虫記を買ってもらったときのことは今でも覚えています。書店に連れていってもらって、ずしりと重みのある箱を受け取りました。ハードカバー製本、全八巻がそろっていて、美しいカラー写真が口絵として載せられていました。外で虫を探しているときも、家に持ち帰って飼育しているときもファーブルになった気分でいました。
『たのしい川べ』のように、生き物が主役の本は大好きでした。
田畑で虫を追いかけているときや、水辺で魚を探したり山で小動物の気配を感じたりしているときなども、どこかで物語のような光景が繰り広げられていないかなと周りを見回してしまいます。
『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』など宮沢賢治の作品も秀逸です。
大学に入ってからもふっと気が付けば宮沢賢治の文章に感じ入っているほどです。物語の内容だけでなく描写の仕方にも関心が持てます。
河合雅雄の『少年動物誌』は趣が異なった本で、自らの少年時代をいきいきと描いています。
この本を読んで、あと50年早く生まれたら良かったのに…、と何度思ったことでしょう。著者の肩肘を張らないせせらぎのように心地よい文章も好きです。
以前にも紹介したことがありますが、『モモ』のように暗に文明を批判している本も素晴らしいです。
批判と言うとマイナスのイメージが付きまといそうですが、物語はリズムよく展開し読み終わった後になってテーマの重さを考えさせられます。
本を読んで得られたもの
私にとって読書とは、冒険のようなものでした。
まだ見たことのない光景を目にし、踏み入れたことのない世界へ入り、日常生活では経験できないような体験をします。
読書は大切だという話を耳にします。
私もその通りだと思います。でも、成績が上がるから読書をするというのはあまり良い考えではないと思います。同じように、読書をすれば成績が上がるという考えも読書本来の意義を無視しているように思われます。
私は、同級生と比べてもずいぶん多くの本を読んできましたが、作文は苦手でしたし国語などは高校になっても悲惨な成績でした。
私の場合、読書によって得られたものは目に見えないものばかりです。
小さいころからの読書体験は、ずっと心の中で生きています。表現するのは難しいですが、虫捕りや山登りと同じように、過去の経験は自分の身体の奥底で光を放っています。そして、その光が時として道を照らしてくれ、自分を支えてくれるのです。